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飼育記録

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秀岳らんちゅうの飼育
 飼育と言っても飼育方法は人それぞれで、愛好家によって異なるものである。飼育環境、飼育する池の数や金魚の数、趣味・仕事や系統的にどのような魚なのか、その他にもたくさんの飼育条件で規制されたり、規制したりして個々に違うものである。誰一人まったく同じ条件とはあり得ないことである。
 平成17年頃から水槽でらんちゅうを飼い始め、本格的仔引きをしたのが平成19年、その年に初めて品評会に参加したのである。
 魚の各部の名称すらわからないままに、専門用語で話を聞いたりするのも辛いところがあるが、話す側としたら熱がはいり流暢な口ぶりで話すのは、今となっては普通のことに思えるのである。
 背びれのない魚を、「これで上手く泳げるのか」、「頭がゴツゴツして気持ち悪い」、「太い金魚だ」と当時はそう思ったものだ。
 ところがどうか、今で言うハネ魚を頂き飼育してみると以外にも愛着がわき癒される気がするのである。恐らく持って生まれた生き物好きな性格なのだろう。
 少なからずとも大半の愛好家もそうに違いないのではないか。でないと金魚を素手で触ったり、糞を取ったり水を替えたり、朝早い時間や夜遅い時間までおよぶ作業ができることではないに違いない。興味のない人間からしたら馬鹿げたことにしか見えないだろうが、好きなものは好きなのである。
 前置きはこれぐらいにして、過去7年間、いや右も左も分からない期間を含めると9年間飼育をしてきた訳だが、その中で自分が思うことを書いておくことにする。
 金魚の飼育には商売を抜きにして二通りある。品評会を目指して飼育する。もうひとつが単純に数匹を鑑賞する為だけに飼う。ここでは前者の品評会を視野に入れた飼育である。その次に、自分で仔引きしてから飼育していく方法、あるいは品評会用に購入して飼育する方法である。どちらも目指すことは同じでもプロセスが異なるのだ。プロセスはその人の飼育方法であって、またその人のプロセスに対する考えがあってのこと、他人がとやかく言うものでもあるまい。先に述べたように飼育条件やその飼育者の考え方なのである。
 以前も別に書いたことがあるが、「目標さえしっかりもてば、その達成の為の方法はいくらでもあるものである。」
 若い頃、このことを気付かせてくれた記憶に残る研修があった。何もない大研修室に端の方に全員立ち、講師が「目標はこの端から向こうの端まで行くことです。ただし、隣同士同じ格好で行くのではなく違う格好で行ってください。」、この指示で一斉に向こうの端まで進みだすが、見事見事、研修生が横を見ながら前転、後転、側転やうさぎ跳び、様々なスタイルで前進していくのである。終わってから講師は、「いくつの方法で目標に向かいましたか?」と質問があると「数えきれないくらいたくさんありました。」と皆一斉に返答したのである。ほんの些細なことだが、「目標さえしっかり持てば、達成の為の方法も幾通りも浮かんでくるものである。」、そう教えられたのだ。だから自分に合う方法を見つけ出すのも楽しいし、結果が残れば尚さら楽しいのである。
 結果が残せる自分に合った方法を確立することが重要である。誰かに否定されてもいいではないか。恐らく否定する人はそのプロセスにかかる外的要因など分かるはずがないのである。自分の池の数や家族、仕事、気候や経済的なもの、あるいは目標自体が他人と違うケースすらあるものだ。それは自分しか分からないこと。だから基本的なものを除き他人を否定することはしないように自分に言い聞かせているのだ。
 話は戻るが、初めての仔引きは、友人に池に来て頂き人工授精でその方法をみせてもらい、それから二腹目、三腹目が自分で行ったのである。最初は「そこまで腹を押すの」と思うほど、人工授精に抵抗があったのだが、すぐに慣れてしまうものだ。結局は孵化後の毛仔の水換えが上手くゆかず、一腹目は全滅したのである。幾度となく今でも経験するのだが、水換えのタイミングや通気、温度、あるいは親からの遺伝もあるようだ。この時期の毛仔の数は相当なもので、最初から半分程度流し、残り半分を飼育する方法もあるようだが、勿体ないと思う当方は、池の数や仕事の状況をみて早めに選別してしまうのである。だから他の愛好家と比較しても一腹の数がその時期にしてかなり少ないようである。この段階が第一難関と思っている当方は早めにこの時期を脱出したい為である。
 次に選別である。ここが作業的にも辛く、しかも数の多さに余裕さえ感じ錯覚を覚え、意外と雑になりがちで、またそうなってしまうのも事実である。  
 経験は積むものでとらわれてはならないと思っている当方だが、ベテランは過去の経験というよりも自分の信念に基づき、先見性を身につけ、それ故に結果を残してゆくに違いないと思うのである。
 恐らくこの時期が最初に格差が生じる重要なポイントでもあろう。同じ魚を分けて飼育しても違う魚に思えるのは、この魚の先をどうみるか思い描きながら選別するようだ。それにらんちゅうの本質や傾向をよく理解しているからであろう。
 飼い始めて若い時期にベテランと黒仔の魚を講評した時のことである。明らかに当方が良い魚と思っていてもベテランは違うのである。「えっ」と思わせる魚を指すのである。これこそが先を観る目であろうか。らんちゅうの傾向や本質を知っているからこそ、はっきり言いきることが出来たのである。黒仔の時期が最終目標ではなく、当歳魚として睨んだことである。結果は言わずと知れた当然な結末であった。
 次に重要と思うのは、青仔から黒仔の時期である。人間は定期的に食事をとり適度の運動をすることで肥満を抑えることができる。逆に小さい時に胃を大きくして多食化するとどうしても胃が慣れてしまい肥満になりがちな傾向になる。これはあくまでも私見であるが、金魚には胃が無いと聞いているが、ある一定の時期まではいくら餌を与えても腹はつかず、餌も遠慮がちになることがある。だから不定期でもいいから与え続けることも一つの方法であると思うのだ。ある方が言っていたが、「いい魚は奇形ですよ」、この表現を書くことが適切かどうかわからないが、通常の飼育ではなく、一般人からみたら生死を彷徨わさせるほど異常な飼い方をする訳なので、その表現にも納得できるのである。
 金魚を観察していると泳ぐことは当然のことだが、餌を求めている姿にしか見えない、唯一楽しみが餌を食べることのように探している、このような思いをするのは当方だけだろうか。「それしか楽しみがないのか」と言いたいこともしばしばである。
 話は戻るが、餌をたらふく上げて残ったら取り除く、極端だがこの繰り返しをすることで多少なりとも太みがでると思うのだ。しかしながら水の傷みの早さを解消できるかどうか、当方の場合は恵まれていて時間的余裕があるものだ。出勤までの時間が長く、昼は自宅に帰れる時間があり、夕方は定時に終わり帰るのが早い。このような外的環境が自分の思う飼育が出来る要因のようだ。しかも一番の要因は楽な管理ですむ数しか残さなかったことである。ところが今はどうか、それが逆に後々に不満を募らせてきているようだ。
 続いて虎剥げから色変わり、一番楽しみな時期である。このときは餌を控えるようにと耳にしたことがある。色変わりに体力を消耗するらしいのだが、逆に体力を消耗するならば余計に食べさせたくなるのは当方の思うところである。色変わり直後が、太みがあるかどうかの判断をする最初のバロメーターにしているからだ。
 当方も単純なもので腹に溜って、それ以上腹に溜らなくなったものが腰や筒まで流れてゆくような気がしてならないのである。人間もまた腹だけではなく首、頬、腕や足にもつながっていると思うのだが、その辺は専門家でないので断言できないが、どうしてもお相撲さんをイメージしてしまうのである。失礼な話である。
 しかし相対的にみて太っている人は足が細いケースは少ない気もするがどうだろうか。希にびっくりする体形で、上半身と下半身、下半身に対する上半身のアンバランスやギャップに驚かされることもあるが、それは本当にごく希な話である。
 要は腹が付いた時点で餌を控えるか、そのまま変わらず与えるかである。当方は待ったなしに与え続けているタイプである。お相撲さんも大きくなってからといってやめることもなく、維持する為に食べ続けているのではないだろうか。しかしながら餌を与えない時もある。それは当然ではあるが病気を引き起こした時、あるいは7月から8月の内の数週間で尾を創る時である。それ以外は無いような気がするのだ。1日中観察できる時などは、池を観ながら与え続けることもある。邪道ではあると思いつつもやめられないものである。
 続いて尾である。これもまたよく聞く話で、尾は黒仔の時に泳がせて創る。確かに泳がせて創る方法が理に合っているし、確立も高いはずである。しかし尾が崩れる可能性はもっと高いのではないだろうか。ほとんどこの時期に数が減ってしまい、頭を痛めるところであろう。金魚の成長が人間ではどの程度なのか分からないが、ふと考えたくなる時もある。ベテランが崩れない尾と判断できる時期は早いが、当方が判断できるのは完成してからである。だから泳がせないことが数多く残すコツであり、そう確信している当方である。
 その理由の一つに、当然経験年数の浅い当方はベテランの意見を聞き、同じように泳がせて尾を創ろうと試したことがある。しかし当方の場合、半分以上の尾が崩れてしまい先に進めないのである。ある時期にそのベテランの飼育場をみせてもらうと同じように尾は崩れているのだが、数の多さに驚いたものである。
 当方が例えば400尾の黒仔を泳がせて半分崩したら200尾残るが、ベテランの数は当方と同じように半分崩れたとしても、残り半分の数が半端ではなく桁違いに多いということである。絶対数が多く多数の法則なのだ。その時思ったのは、一般的に他人の飼育方法を聞いても環境に違いがあるので、悪い意味ではなく、単純に鵜呑みにすることは失敗を招くことすらあり得るものだ。石橋を叩いてわたるなら、結論だけを聞くのではなく、その理由たる根拠までも聞けば、自分に合うか如何か判断できるのだ。
 この失敗は、いい意味で気付かせてくれた失敗であった。尾を創るために泳がせて崩れたら跳ねる方法は、今の当方の飼育場では厳しいと。
 しかし全く泳がせない訳でもない、当然金魚は泳ぐもの、いくら泳がせたくなくても泳いでしまうもので、極力泳がせない工夫をすることに留意しているだけなのだ。
 兎に角、らんちゅう飼育には縦横奥深さがある。当歳魚であれば産まれて数ヶ月間で勝負する、いや短期間で勝負できるのだ。その為にも一歩間違えたり踏みはずしたりしたら、そのステージを確実にクリアできなくなり、一年を棒に振ることにもつながる厄介なところもあるものだ。
 最後に、これから先いつまでこの飼育が続くか分からないが、らんちゅうの飼育を楽しむ為にも基本に忠実に、しかもらんちゅうについて十分理解し気付くことが大事である。また自分の要件にあった飼育方法を日々改善しながら、目標をしっかり見据えたうえで、楽しみながら取り組みたいものである。

平成26年1月
                        
秀岳らんちゅう